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​介護保険物語 第1回(2/3)

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【老人医療費支給制度】

70歳以上の老人医療費を無料にする老人福祉法改正案もこの年(1972(昭和47)年)の国会に提出された。70歳以上の高齢者を対象に,医療保険の自己負担分を全額公費で支給する,というもので,2月17日に国会に提出された。老人医療の無料化は,市町村がまず実施していた。世論に押されて都道府県がそれをすくい上げて実施し,そうした自治体の動きと世論に押されて国が 実施に踏み切った。昭和47年の通常国会は佐藤内閣の最後の国会で,重要法案が軒並み審議未了廃案に追い込まれるなかで,老人福祉法改正案だけは衆参両院とも全会一致で可決 され,国会の最終日の6月16日に成立した。改正法は6月に公布され,昭和48(1973)年1月から無料化が実施された。

 

【寝たきり老人】

「『寝たきり』老人が、我が国では病院に約30万人、福祉施設に約15万人、在宅は約35万人、合計80万人という。まさに世界に冠たる『寝たきり老人大国』である。海外の先進国はこの問題をどう解決しているか。まずは米国へ赴いたが、営利にひた走る株式会社のナーシングホーム産業(米国でナーシングホームとは医療施設のこと)がはびこっていた。世界一豊かな国での『寝たきり老人』の無残な扱いにひたすら落ち込んでいたが、そんな思い込みを根底から覆してくれたのが北欧はデンマークの老人ホームの施設長さんとの座談会だった。『寝たきり』とはすなわち『寝かせきり』のこと。起こさないから『寝たきり』になる。この簡単明瞭な事実を指摘され、目からウロコが落ちる思いだった」

(岡本祐三さんの話、生活衛生、1991より)

【高度経済成長期】

復興に向かった日本経済は、その後、世界に例のない高度成長成長期に入っていく。1955年から1973年まで、日本の実質経済成長率は年平均10%を超え、欧米の2~4倍にもなった。

1950~1953 朝鮮戦争による特需景気。

1955~1957 神武景気(31ヶ月)。「こんなに景気がいいのは神武以来だ」。1956年度の経済白書「もはや戦後ではない」は有名。

1958~1961 岩戸景気(42ヶ月)。神武景気より景気が良い。神武天皇の前の名前はないか?じゃあ、天照大神の「天の岩戸」のエピソードはどう?それいただき!と、岩戸景気と名付けられた。1960年度経済白書「投資が投資を呼ぶ」。この年池田勇人内閣「所得倍増計画」発表。「白黒テレビ・冷蔵庫・洗濯機」が三種の神器となり、消費ブーム巻き起こる。

1962~1964 オリンピック景気(24ヶ月)。1964年東京オリンピック開催。そのまんま。またこの年、日本は経済協力開発機構(OECD)への加盟を認められる。また同年4月より誰でも海外旅行に行けるようになった。

1965~1970 いざなぎ景気(57ヶ月)。こりゃ岩戸景気より長いじゃないか。天の岩戸の前はなんだ?そんじゃ「いざなぎのみこと」はどうだ?それいただき!と、いざなぎ景気となった。国民生活では「マイカー、カラーテレビ、クーラー」の3Cブームが起きる。1968年、GNPが(自由主義経済国内で)アメリカに次いで第2位となる。

(ちなみに「いざなぎ」の奥さんが「いざなみ」で、この2人の間にできた子どもが「天照大神」である)

【国民福祉税構想】

1989(平成元)年に導入された消費税(3%)を廃止し、税率7%の国民福祉税を創設する、という内容で1994(平成6)年2月3日、深夜の会見で細川護煕首相が突然発表した構想。当時はバブル経済崩壊後で、景気対策として所得減税が求められ、その穴埋めとして消費税増税が強く求められていた。(細川内閣は1993(平成5)年8月9日~1994(平成6)年4月28日まで続いた非自民・非共産による連立内閣であった。これにより、結党(1955(昭和30)年)以来初めて自民党が下野することになった)しかしあまりに唐突な発表だったこともあり、政権内外から反発を呼び、翌日4日には撤回を余儀なくされた。所得減税の穴埋めには、結局赤字国債発行分を充てることが決められた。

【ドイツの介護保険】

ドイツは1994(平成6)年、他の先進国に先駆けて介護保険を導入している。

​戦後高度成長期と家族制度の崩壊

 

 

藤田 はあはあ。なるほど。

ちょっと待って下さいよ。これまでのお話とちょっとずれるかもしれませんが(笑)。

わたしの調べによりますと(笑)、1973(昭和48)年、「老人医療費支給制度」(左注参照) というのができて、70歳以上の高齢者医療費が無料になりますよね?それが1983(昭和58)年に廃止されるまで、10年間、老人の医療費が無料だった時代がありました。この時代はつまり、高齢者の世話は社会で看ようや、という意識があったんですよね?

 

森藤 確かにそのような意識があったと言えなくもないですけど、この制度ができる背景には相当悲惨な寝たきり老人の問題があり、これをなんとかしなければならないという非常に切羽詰まった事情があったんです。

 

ただ、この問題をそこまで掘り下げてお話しすると非常に複雑になりますので、ここでは、家族制度の崩壊ということに焦点をあてて流れを見ていきたいと思います。

 

そもそもですね、「介護」というのはもう、歴史上ずーっと行われていたわけです。じゃあその介護を誰がやってたか?といえば家族がやってた。それが当たり前だったわけですね。そのため家族の中で行われる介護の様子というものはほとんど表にでてくることはなかったのです。そういうふうに介護は人目につかない形で家族内で処理?されていた。それが綿々と続いてきてたわけです。

 

藤田 そうなんですか?

 

森藤 ところが近代になってその家族制度がだんだん崩れてき始めた。この家族制度が崩れるっていうのはね、文明がというか社会がというか(笑)、それが発展してきて、それまではみんな家族と一緒に生活していたものが、子どもたちがだんだん外を見るようになった。

 

藤田 それはあれですか?戦後の高度成長期 (左注参照) というか、その頃のこと?

 

森藤 そうですそうです。で、外を見るようになる。見るだけじゃなくて、外に出かけて行ってそこに生活の基盤をつくるようになる。家から離れても生活ができるような社会になっていって、家族に頼らなくても、自分たちで生活できるじゃないか、ということになっていく。

 

そもそも家を継ぐことになっていた長男ですらも家族から離れていくわけです。物理的に離れていくわけだから、そりゃ面倒看られないよね。それが家族制度が崩れるっていうことなんでね。

で、離れた当初はまだ両親を看なくちゃという意識はないわけです。まだ両親は元気だから(笑)。

 

藤田 なるほど。だけどそれからしばらくして、20年もすると、親も元気がなくなってきて、面倒看なくちゃという意識が出る、それが1990年ぐらいからで、でも物理的に離れちゃってるから、面倒看ようにも看られない、と。

 

森藤 そう。そういう家族制度の崩壊による、面倒看ようにも看られないという社会的状況変化の兆しと、先に述べた社会的入院というのがほぼ同時に起きてきたわけですね。だから国民の側からいうと、もう家族では親を看られないので、「これからは国が面倒を看てくれる」ということになると、少しは安心するわけですね。ならお金を出してもいいか、とこうなる(笑)。

 

藤田 はあー。なるほど。面白いですね(笑)。面白いって言っちゃ、怒られる(笑)。でも面白い(笑)。

「介護保険」の導入

 

森藤 当時、措置制度の時代は、(まあ元は国民の税金なんだけど)お金を出すのは国だったんだよね。でも、そうして国からお金を出してたんでは、もう間に合わなくなってきた。そうして出てきたのが、国民に直接お金を出させようという介護保険という仕組みなんですよ。

 

藤田 なるほど。あ、こういう資料がありますよ。

当時の高齢者介護対策本部の事務局長をしていた人の話なんですが「1994(平成6)年、細川首相が打ち出した「国民福祉税構想(税率7%)」(左注参照) が頓挫したとき、社会保険方式しかないと思った」という。

 

森藤 まあその人がそう思ったんならそれでいいんだけど(笑)。

 

でもね。そうして国民に(保険という形であっても)お金を出してくださいと言っても、誰も快くは引き受けませんよね?

 

藤田 そりゃそうですねえ(笑)。

 

森藤 でもどうしてももう国はお金を出せない。だったらなんとかして国民にお金を出してほしい。とすればその前に、国民に、お金を出してもいいかな、という認識をもってもらわないといけない。どうすればいいか?そういうときに世界を見渡してみて、そこにあったのが「介護保険」という仕組みだったんですね。それならそれを持ってこよう、と。

 

藤田 はあああ。ということはその時点でもう、世界には介護保険という仕組みがあった?(左注参照) 

 

森藤 あったんです

日本では、それを名付けて「介護保険」という名前にした、ということです。まあ、実際はこんな単純な話しではないでしょうけどね。

 

障害者福祉の先見性

 

藤田 でもその前、介護保険が始まるまでは、「老人福祉法」(1963(昭和38)年公布)は「高齢者福祉対策」を、「老人保健法」(1982(昭和57)年公布)は「老人保健医療対策」を、それにもうひとつ「心身障害者対策基本法」(1970(昭和45)年公布)というのがあって、それが「障害者対策」を、という感じでそれぞれがそれぞれを担っていた、と。

 

言ってみれば、この3つ、ボーンボーンボーンって、福祉の3本立てって感じがするんですが(いわゆる福祉三法は、①児童福祉法②身体障害者福祉法③母子及び父子並びに寡婦福祉法、です)、中でも、1970(昭和45)年制定の「心身障害者対策基本法」がその第六条で「障害者は、その有する能力を活用することにより、進んで社会経済活動に参加するように努めなければならない」と言ってて、この「有する能力を活用する」っていうのが、無茶苦茶現代っぽいっていうか、今の「自立支援」という考え方にすごく沿っているような気がしてるんですね。そこから今の「自立」の考えが出てくるんじゃないか、と。

 

で、一番最初の質問に戻るんですが(笑)、つまり福祉の3本立ての中で障害者福祉が一番進んでたっていうか、そんな感じがするんですが、森藤部長はいかが思われます?

 

森藤 う~ん。たぶんね、老人福祉の方は、伝統的に家族が看ていたということがあって、それって言ってみれば、当たり前と言うか、年取ってくるんだから看なきゃいけないでしょう。だから老人の方は家族でよろしくということでしょう。

 

一方障害者っていうと、生まれつき障害を持って生まれた人もいるし、若くして障害を負った人もいて、そこから延々と人生が続くわけですね。それからずーっと一生その障害を背負って生きなきゃいけない。だとすればね、日本も文明国家だと言うのなら、そこはちゃんと国が面倒を看なきゃいけないというか、そこにスポットを当てて対策を考えなきゃいけない。そういうことになったのではないでしょうかねえ。

 

藤田 ということはあれですかねえ、障害者の場合は、家族が看るというクッションがなかった。だから初めからそこに国が介入する必要があった、ということですかねえ?

 

森藤 うーん。というか、障害者でも家族が看るというクッションはあったんだとは思うんですよ。でもそれをそのまま家族に丸投げで国は何もしなくていい、というスタンスが取れなくなってきたということではないでしょうか。

 

藤田 はあー、なるほど。

 

森藤 国は国で発展していくじゃないですか?繁栄して発展していく。でも障害者はそのままそこにいる。すると、欧米諸国から見たときに、あっちの国はその辺進んでいますからね、なんだ、高度成長とか、先進国、経済大国とかなんとか言ってるけど、障害者はこのままなの?って。なんだって思われるでしょ?それじゃいかんと。

 

藤田 なるほどねえ。

それで障害者の福祉理論が老人の福祉理論なんかに比べて先行していった、と。そういうわけですね?

 

森藤 それと、ちょっとシビアな言い方かもしれないけど、老人は先が短いのよ。今更自立もないでしょ、と。でも障害者の方は親の方が先に亡くなっていく、と。やっぱりそのへんのニュアンスが違うんじゃないかな。老人と障害者では。

 

藤田 う~ん。なるほど。そのへんの感じ、ようやくなんとなくわかりました。

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