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執筆者の写真企画室:藤田

介護保険 その進化過程におけるよもやま話 No.1


文中の二人。AIによる画像変更済み。 左が森藤部長(当時)、右が藤田(企画室)

現在(2024年6月)介護事業はほとんどすべてが介護保険制度のもとで運営されているわけですが、介護事業そのものは介護保険制度が導入される前から行われていたことは皆さまご承知のとおりです。


ただその事業はあくまでも福祉の範囲で行政の措置のもと実施されていました。これがすなわち措置時代と呼ばれる時代ということになるのです。


介護保険制度が設立されたのは平成12年(2000年)ですので、その歴史は決して長いわけではありません。ですから介護保険制度そのものが最初から完全無欠な制度というわけにはいきません。


事実、制度の改正が3年ごとに行われることになっており、これまで様々変遷をたどって今日に至っております。そこで本コラムでは表題にあるように介護保険制度が進化する過程において起こったできごとの一部を「よもやま話」という形で皆さまにお伝えすることとなりました。


なお、本コラムは社会福祉法人サンシャイン企画室が令和2年(2020年)から数年に亘って介護保険物語というテーマで実施した同法人森藤部長(当時:上記写真左)へのインタビューを掲載したものです。したがって、その内容や表現、データなどは原則としてインタビュー当時のものであることをご了承ください。また、森藤部長(当時)は令和5年3月末日で退職され同年6月当法人の理事に就任され現在に至っておりますことを申し添えておきます。(企画室 担当:藤田(上記写真右))


(1) 措置制度から介護保険導入へ


藤田(企画室) 今日は「介護保険物語」という連載を始めるにあたり、海よりも深く山よりも高い(笑)介護への見識をお持ちの森藤部長においでいただいております。部長は平成8年に介護業界に入って以来約25年近くにわたりこの業界とともに歩んでこられました。 その間この業界では「措置制度から介護保険制度へ」という大変革があり、その真っ只中で、そこで起こったあらゆることを見つめ、また時には当事者ともなって激動の波を乗り越えてこられました。今回はその経験の一端でもお伺いできればと思います。

今日はよろしくお願いします。

 

森藤部長(以下敬称略) 海よりも、ということはありませんが(笑)、よろしくお願いします。

 

藤田 よろしくお願いします。

ところで今日は、事前に質問リストをお渡ししておりまして、それを踏まえて、戦後から2000(平成12)年に介護保険が始まるまでをお伺いしたいと思います。お話を始める前に、何らかの戦略というか、お考えはありますか?

 

森藤 戦略というのは大げさですし、とりあえず、行きあたりばったりで(笑)どうか、と。そこで、本題に入る前に一つご了承いただきたいことがあります。私がここでお話しすることは、その内容について学術的裏付けがあったり、関係するいろんな方々の賛同をいただいていたり、また、その内容の真偽を私自身で裏付けしたりしたものではなく、それこそ行き当たりばったりで思いつくままに語らせていただくということで、よろしくお願いします。

 

藤田 いいですねえ。わたしはもう、行きあたりばったりばっかりで(笑)。大賛成です。



■措置制度の限界---「社会的入院」


藤田 じゃあまず行き当たりで(笑)。介護保険が始まる前の時代、いわゆる「措置時代」の特別養護老人ホームの始まりの背景のようなことをお伺いしたいのですが、どうもその時代のイメージができないんですが、それはどんな時代だったんですか?


森藤 そうですね。まあ遡ればどこまで?ということになりますが(笑)、私が子供の頃に住んでいた田舎の町に養老院というのがあったんですよ。それは何かといいますと、行き場のない老人、お金もないし、身よりもないし、ほっといたら野垂れ死にする、また生活保護でお金を渡してもなかなか自立して生きていけない老人、そういった老人たちを集めて生活をさせていたんですね。そういった人たちは必ずしも身体が不自由で今でいう介護が必要だというわけではないんですね。

 

藤田 ほうほうほう。それは戦後ですか?

 

森藤 戦後ですよ。戦後すぐくらいの頃ですよ。ただ、仕組み自体はもっと前からあったようですよ。それこそ聖徳太子の頃からそれらしいものはあったようです。たとえば、どっかのお寺がそういう人たちに施しをしながらお寺で面倒みていたとかね(笑)。

 

藤田 なるほど(笑)。

 

森藤 だが、そういう養老院では、入居している人が歳をとってきて身体が動かなくなってきた、というようなことになっても、そのホームの職員が専門で介護するというような仕組みはなかったんですよ。それではやがては困ったことになるということで、その養老院を発展的に制度的に整備して、元の養老院の機能を引き継いだ養護老人ホームと養護老人ホームに入る人たちよりももう少し自立の可能な人たちが入る軽費老人ホームと言われるもの、それに身体介護に特化した特別養護老人ホーム(以後、「特養」という。)が出来たのです。

 



藤田 介護人を付けて?

 

森藤 そうです。介護を専門に行う職員が配置された老人ホーム「特養」です。当然、それまでの養老院とは施設の作りからして規模も大きくなるし職員の数も比べることもできないほど大規模になってきました。こういう施設を造るとなると国や自治体もしっかり予算をつけてしっかり体制を構築して取り組まないととても特養というものを運営していくことはできないようなレベルの施設ができてきたのです。つまり、老人福祉が新たな段階に入ってきたと言えるのではないでしょうか。 これは余談ですが、地方の自治体の中には特養と養護老人ホームの両方の施設を抱えるのは経済的に大変なので特養を養護老人ホームに代用し、身体的には元気な人々も結構たくさん入居させていたのです。こういった人々が介護保険導入後要介護から外れて特養に居られなくなるのではと話題になったりもしました。こういった身体的には元気なお年寄り、今でいえばきっと要支援1・2程度の人々ではないでしょうかね。特養にもこういうレベルの人々が結構たくさんいたので、特養という施設でも生活の場とか自立生活とかいうことを考えたケアを実施しなければという考えも生まれてきたのではないかと思います。

 

藤田 はあー。なるほどー。

 

森藤 まあ、介護保険が始まる前の状況というのは、そんな感じで、介護そのものをメインに捉えた専門の施設というのはまだ歴史としては浅かったのですね。

でもまあ、この質問リストに則っていきますと、まず第1問ですが、自立支援という考えとかがあって、それらを引き継いで、介護保険につながっているという趣旨の質問になっているんですけれども、実は、これを言うと元も子もないんでしょうけど、そういうことはね、まあ言ってみれば、だいたいが方便なんですよ。

 

藤田 ほうほう。方便?

 

森藤 要するに、その時その時で施策が出てくるのは、それまでの施策が行き詰まって、このままやっていたらちょっとうまくいかなくなるとか、あるいはいろんなとこから何か要望が出てきて、とかで、だったら新しい施策を付け加えていく、と。そうしてやって出てきたのが、結局は介護保険なわけで、その時はそれまでの措置時代のやり方が限界に来ていた、ということなんですよ。

で、そんな中で一番大きな限界というのは、「社会的入院」ということではなかったでしょうか。

 

藤田 ふんふん。なるほど、社会的入院!

 

森藤 人間誰しも歳取ってくると、何か病気しますよね?それでそのとき入院させて、そのままずるずる、病気が治癒して退院させようとしても家族がもう看られないとか、そういうことがどんどんどんどん増えてきて。その頃もちろん先程でた特養はあったんですが、当時の特養は誰でも入れるなんてものではなくて、元々は弱者救済から来ているので、困窮者とか行き場のない人をお世話していたっていう背景があるんです。

 

藤田 特養が始まったのは、資料によると、昭和38(1963)年ということになっていますね。

 

森藤 そう。だから特養には誰でも入れるというわけにはいかない。入れるのは低所得者に限られていた。一方、歳を取ってなんらかの世話が必要になるのは、なにも低所得者だけではなくて、平均的な所得の人やお金持ちだってそうなる。なのに、そういう人たちはなかなか特養には入れない。というよりも入りたがらなかった。特養というところはお金のない困窮者が行く姥捨て山のようなところ、というのが世間の認識でしたからね。だったらどうするか?もう治療するところはないのに退院せずに入院を続ける、ということになって、それが「社会的入院」ということで社会問題になった。



■戦後高度成長期と家族制度の崩壊


藤田 はあはあ。なるほど。

ちょっと待って下さいよ。これまでのお話とちょっとずれるかもしれませんが(笑)。

わたしの調べによりますと(笑)、1973(昭和48)年、「老人医療費支給制度」というのができて、70歳以上の高齢者医療費が無料になりますよね?それが1983(昭和58)年に廃止されるまで、10年間、老人の医療費が無料だった時代がありました。この時代はつまり、高齢者の世話は社会で看ようや、という意識があったんですよね?



森藤 確かにそのような意識があったと言えなくもないが、この制度ができる背景には相当悲惨な寝たきり老人の問題があり、これをなんとかしなければならないという非常に切羽詰まった事情があったんです。ただ、この問題をそこまで掘り下げてお話しすると非常に複雑になりますので、ここでは、家族制度の崩壊ということに焦点をあてて流れを見ていきたいと思います。

というのはね、「介護」というのはもう、歴史上ずーっと行われていたわけです。じゃあその介護を誰がやっていたか?といえば家族がやっていた。それが当たり前だったわけですね。そのため家族の中で行われる介護の様子というものはほとんど表にでてくることはなかったのです。そういうふうに介護は人目につかない形で、家族内で処理?されていた。それが綿々と続いてきていたわけです。

 

藤田 そうなんですか?

 

森藤 ところが近代になってその家族制度がだんだん崩れてき始めた。この家族制度が崩れるっていうのはね、文明がというか社会がというか(笑)、それが発展してきて、それまではみんな家族と一緒に生活していたものが、子どもたちがだんだん外を見るようになった。

 




藤田 それはあれですか?戦後の高度成長期というか、その頃のこと?(日本の高度成長期とは、1954(昭和29)年12月から1970(昭和45)年7月までの約16年間である)

 

森藤 そうです、そうです。で、外を見るようになる。見るだけじゃなくて、外に出かけて行ってそこに生活の基盤をつくるようになる。家から離れても生活ができるような社会になっていって、家族に頼らなくても、自分たちで生活できるじゃないか、ということになっていく。そもそも家を継ぐことになっていた長男ですらも家族から離れていくわけです。物理的に離れていくわけだから、そりゃ面倒看られませんよね。それが、家族制度が崩れるっていうことなんでね。

で、離れた当初はまだ両親を看なくてはという意識はないわけです。まだ両親は元気だから(笑)。

 

藤田 なるほど。だけどそれからしばらくして、20年もすると、親も元気がなくなってきて、面倒看なくてはという意識が出る、それが1990年ぐらいからで、でも物理的に離れちゃっているから、面倒看ようにも看られない、と。

 

森藤 そう。そういう家族制度の崩壊による、面倒看ようにも看られないという社会的状況変化の兆しと、先に述べた社会的入院というのがほぼ同時に起きてきたわけですね。だから国民の側からいうと、もう家族では親を看られないので、「これからは国が面倒を看てくれる」ということになると、少しは安心するわけですね。ならお金を出してもいいか、とこうなる(笑)。

 

藤田 はあー。なるほど。面白いですね(笑)。面白いって言っちゃ、怒られる(笑)。でも面白い(笑)。


(次回に続く)

 

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